感想

くらげなす漂うアメリカンアパレル

わがしchannel と、自分語り(をいやがるひとの生き/息苦しみ)

YouTubeのはなしです。最近さ、「わがしchannel」というカップルチャンネルにすごくすごくブログのテーマにするくらいはまっているの。もうやばいの中毒なの。(なんか依存症という表現に置き換わって以来、「中毒」という言葉が可愛くみえてくるから不思議だよね。)

「わがしchannel」は2019年1月16日に開設され、たちまちチャンネル登録者5000人を突破したレズビアンカップルチャンネルだ。開設から1か月少し経った現在では8500人以上のチャンネル登録者がいて、おそらくすぐに1万人を突破し、半年以内に3万人くらいいくんちゃうかと思われるようなすごいチャンネルなのである。

youtu.be

 

ああああああああ可愛いいいいいいいい

 

向かって右のにゃんかわ美人さんがKanaさん、左のわんかわ美人さんがMikiさん、である。交際3年の彼女たちは現在同棲しており、4月からはハワイに移住されるそう。

現在、デート動画やバレンタイン企画動画、モーニングルーティンなど10点ほどの動画がアップされており、中毒者の私はそれらを朝昼晩の飯時または執筆につかれたときなどに見まくっているのだが、とにかく25歳~にしては尋常ならざる落着いた雰囲気のお2人で視聴者をふにゃふにゃになるまで癒してくれるのである。

今回は動画のみの少ない情報で「わがしchannel」の魅力を語るとともに自分語りを隙あらばというかほぼ自分語りをしたいだけだ(YouTubeとか漫画アプリとかのコメ欄で「自分語り乙」という紋切型批判をよく目にする。どんんんんだけ生き苦しくしたいの世の中を!? って慄いたけど、「場所わきまえろ」みたいな、TPOの問題をすごく気にする人もいるのだなと思い、そうしたコメントをする人たちのほうがよほど生き苦しいのかもしれない…、なんて想像します)。

 

まあというか私はYouTubeのコメントできる機能を持ってない(どうやってやるのか調べる気力がない)からここに書かせていただくんす、って感じっす。

 

あのさ…、もうさ…、kanaちゃんとmikiちゃんのラブラブっぷりをみているとさ、自分がどれだけ彼女にたいして駄目人間だったかがわかるよね。mikiちゃんみたいに包容力あるやわらか~ひ女を目指してたんだけど心のなかでは真っ黒っていうか。そこも好き

って言ってくれたのにそれすら信じられないという、まじでひどい幼稚な餓鬼そのものでぶかぶかの服だよ包容力キャラなんぞ。

 

 いま同性婚の法整備を求めて訴訟がはじまっている。勝訴すれば世界はより平等になり、正しさを増すだろう。

 

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私はこの件を100%支持してるし、署名もしたよ。

 

だけど私と彼女の関係は、法の抜け穴…つまり同性間は結婚できない、ということから、不倫関係ではなかった、といえる感じだったんだよね。私はポリアモリーになろうと思って、夫にも彼女のことを話していた。夫は私に、女となら性的行為をしても構わないと言っていた。だけど私はやはりポリアモリーではぜんぜんなく、彼女のことを想うだけで、悪いことをしている気持ちというのがいつもあって、性的行為をするところまで踏み切れなかったし、いつも最悪な気分で、自信が持てなかった。彼女はゲイじゃないんだよね。バイですらない。あなただから好きになったと言っていた。それすら嫌だったの。ゲイであってほしかったんだ。なぜなら彼女が完全にヘテロならいつかは離れていくのではないか、という気がしたから。

 

まあ腹を割って話せなかったことがいちばん大きいと思う。もっと私の思想を塗り込んで、私色に染めちゃえばよかったななんて思う。LGBTQについての考えも彼女と私じゃぜんぜん違うかってんもん。彼女にとってはLGBTQなんてなくて、その認識は江戸時代にザビをぶちぎれさせた「衆道」とか大正時代の「百合」とかの世界観といえばいいかな。

そうそう、よくLGBTの話になると日本は硬いうんぬんいうコメントを見かけるけど、ちがうでってはなしなんだよね。もともとLGBTQは欧米の同性愛排斥の反省・反動から生まれたものだよね。フェミニズムもそうだけど、もともとヤベエ差別があったからこそ反骨精神がにょきにょき生えてフェミニズム運動だのLGBT運動だのがはじまったんや。(合理主義もマジカルな暗黒時代があったからこそのものやし)

日本は男同士のいちゃらぶにも女同士の性愛にも寛容だった(1500-1880ごろ)。女の権利はなかったけど、1人で出かけることができるし、家の財布握れるし、離婚もできたから(庶民はね)反骨精神がかきたてられるほどの弾圧を受けてはいなかった、というかんじだとおもう。だっていくら国家に洗脳されていたとしても、やはりアナーキーな感じで立ち向かっていく人は出てくるものじゃん。そういうんが一個もないから、妥協できるレベルだったともいえるのかもしれない。もちろん辛苦は計り知れないし、当時の国家(いや、国家ってのは近代的すぎて語彙が違う気がするけど)のやりかたが正しいとも思わないけどね。

でも寛容だったんよ、ただそれが近代的な愛じゃなかっただけ。近代的な愛って、つまり「西洋的=キリスト教的」な愛、ってことやからにゃ…。いまでいうと「プロテスタント的な愛」って感じかなぁ。シンプル十字架のもとで誓う系の愛を、みんな、愛って呼ぶやろ。

西洋が持ち込むまでは、愛というより、情愛だったんよね。江戸っこ的な情愛。野暮はいうなしゃあなし一緒にいるでぃてきなラブ。π的にわりきれないラブ。ドビュッシーピエール・ルイスの愛。適量でどうでもいい愛。ただ雪が降ったことを報告したい愛の情の愛の。

だから、日本は硬い、は間違い。日本はやらかいよ、ただ、現代の日本人の愛観念に合う制度はもうアメリカから持ってくるしかないってだけ。それはもう戦後からそうだったんちゃうかな。だからとっとと同性間で結婚できるようにして、あいまいな部分をなくして、同性不倫をぶったたきましょ~って感じすかね……泣。こわひ。まあ私はけっこうガチガチのアダム・スミスモラリストだから、けっきょく、法があってもなくても似たようなもの。自分をルールに縛り付けて「彼女を大切にする」っていう一番大事なことができんかったんだから。ああ塞翁が馬。einmal ist keinmal。っていってわたっていくしかない鴨川。さいごはじぶん。訴訟を起こした人々は本当にすごいな。

 

あぎゃっ!そうだ。

youtu.be

 

このなかでフラ語について話してる部分があってねー! ちょとつっこみたかったの。フランス語のHは発音しないの!

kanaちゃんが言ってるのは、たぶんRの発音。

舌を口蓋奥上につけて、ふごーってかんじに発する音ね。

でも笑う=rireだから、あるいみ「RRR=(ふぎふぎふごふご!的発音)」なのかなー。知ってるフランス人でRRRって笑うひと一人もおらんけど(笑)

孤独やな。

(笑)←孤独感を倍増させる記号やな…。

YouTubeの動画についてブログでコメント…。

孤独や…。

がんばろ…。

さいきん仕事がもらえず喉が渇く日々……。がんばろ…。みんなもファイトですじゃ。とりあえずわがしchannelめっちゃオススメだから…。笑いとお洒落と愛とラブが詰まっているから見てね。

 

青のフラッグ41話と同性愛嫌悪と簡単LGBTQ用語

さっき青のフラッグ41話を読み終えた。トーマの笑顔がかなしくて星空がきれいでいろいろな思い出がよみがえってきて号泣してた。

作者さんの表現力すごいわ。

 

 

いままで物語内でほのめかしは多々あったものの明言はされていなかったトーマの恋心であるが、青のフラッグ41話では、ついにその思いがはっきりと口に出される。

また、トーマのカミングアウトはマミ、ケンスケ、シンゴを巻き込んで学内事件の様相を帯びてしまった。男子3人は停学し、マミは学校を休んでいる(クラスメイトにねほりはほり聞かれることを見越して休んだのだろう)。

トーマのセクシャリティをめぐるひそひそ話が学校中にひろがっており、渦中の太一は幼馴染で親友のトーマの本当の気持ちを測りかねている。告白と謝罪を受け、太一は何を思うのだろうか。

 

いつものようにコメント欄を熟読してみた。すると感想のタイプを大きく4つに分けることができた(むりやり分けた)。

(1)「つらい、泣いた」など感情移入する素直意見

(2)モブの同性愛に対する発言「襲われたら勝てない」についての反発意見

(3)ケンスケむかつく意見(orケンスケむかつくは違うんじゃないか意見)

(4)「俺にはゲイを受け入れるのは無理」という男子意見

 

このうち、(2)と(4)のテーマはどちらもホモフォビアに関するものだと思うので、今回はそのことについて少し書いてみようとおもう。

 

青のフラッグのコメント欄はおおむね好意的であるが、たまにものすごい拒否反応をそのまま書いている読者もいるので驚かされる。と同時に、これがホモフォビアというものかと妙に納得するのである。

ホモフォビアとは「同性愛嫌悪」である。同性愛が悪しきものとされるキリスト教イスラム教の宗教的背景から、どうしても受け付けられない=嫌悪するというひともいる。中東やアフリカでは同性愛が極刑となる可能性もあるし、中華人民共和国では同性愛が精神疾患としてあつかわれる(現在も世論にその名残がある)など弾圧の対象である。

同性間の性愛行為は、アフリカ大陸の38か国(54か国中)、イラン、サウジアラビアアラブ首長国連邦、イエメン、アフガニスタンパキスタン北朝鮮、マレーシアなどで違法。極刑の場合も。またややこしいがキリスト教イスラム教は最高神が同じである。

 

ここ日本でも、イスラム教、キリスト教の影響がうっすらしみわたっているという可能性もなくはないだろう。ザビエルが1549年に来日してから、キリスト教は長いこと信者を集めてきた。約400年の後の第二次世界大戦後、日本はアメリカのものになった。憲法アメリカ人が作った。だから民間にキリスト教的価値観がひたひたひたっとしみわたっている可能性はある。

 

とはいっても、やっぱし、日本では感覚的なホモフォビアが多いんではないかというのが私の意見である。

感覚的に無理、なホモフォビアの場合、そこには「自分もホモかもしれない」などの恐怖心が関係しているとされている。自分のなかにあるものを恐れているという説である。

 

私はガクトが嫌いで、しゃべくり007に出てるのをみておえーー見たくねえわと思ったのだが、よくよく内省してみると、私はガクトに(性的に)興味があるからこそ嫌悪感を抱いたのではないかと思った。だってわざわざ夫に、「私このひと嫌いなんだよね」というくらいだからである。以前、斎藤工が大人気だったころ、「斎藤工まじきもい」と言っていた女の子がいたが、彼女は「斎藤工に関心を抱いてしまう自分自身」をきもいと感じていたにすぎないのかもしれない。

そういえばジャンププラスには『モネさんのマジメすぎるつき合い方』というエロ漫画があり、新連載当初から尋常でない非難コメントを浴びつづけている。これは、『モネさんのマジメすぎるつき合い方があまりにもストレートにエロ漫画であるために、「エロ漫画で興奮する自分自身」を嫌悪する読者が多いためだろう。かれらは「モネさん」には拒否反応をみせるが『早乙女姉妹は漫画のためなら!?』には好意的である。後者もエロ漫画ではあるがギャグ要素がふんだんにちりばめられており、それが読者の罪悪感を拭い去るワイパー的な役割を果たしている。「モネさん」にもギャグ要素はあるが作者のギャグセンスが低いため罪悪感を払拭できず、結果、読者の自己嫌悪だけが残ってしまう。ジャンププラスを読む層は幅広いだろうが、たとえ60代のおばさん(孫持ち)だとて、少年の魂がまだ健在だからジャンププラスを読むのである。ちょっと長くなり過ぎたが、少年の魂を内奥に宿していれば、たとい60代の孫持ちおばさんでもドエロイ漫画にギャグ要素を求めるのである。

 

ながすぎる。。。。

 

すみません。。

 

とにかく、ホモフォビアには同性愛者への高い関心とそれに対する自己嫌悪がつきものなのだ。同性愛にかんしてべつにどうでもいいと思っている人は、わざわざ「俺は無理」などとコメントを残すなんて愚行しないはずだ。なぜか「自分が被害をこうむるかもしれない」と悩んでしまうのがホモフォビアな人々なのである。だから青のフラッグ41話の冒頭~数ページでモブ男子たちは「襲われたら勝てない」などと発言したのである。

ちなみにこれは男子だけに限らず、ノンケのひどい行動あるあるかもしれない。私も中学時代、友人に「りょうごくがレズ(ビアン)だったら友だちやめるわ」と言われたことがある。10年ほど経って同窓会でカムアウトした際、当時の発言について訊くと、彼女はすっかりそのひどい言葉を忘れていた。しかも私以外のビアンさんの友だちもいるらしく偏見はまったくなくなっていて、「彼女できたら教えてね♡」などと言ってくるレベルだった。人は人との関りでどんどん変わっていくものなのだと思う。

 

 

LGBTQの用語について

 

コメ欄で間違ってる使い方をしてるひとが多くみられたので超簡単にまとめる。

 

ジェンダー=社会的な性(自分の性別は?)

セクシャリティ=生物的な性(だれが好き?/好きな人がいない?)

 

ジェンダー→人間が作った共同幻想。自分で決められる。

セクシャリティ→もともと女が好きだったり、男しか好きになれなかったり、男か女かに限定できなかったり。自分で決めようとしても、どうしようもないことも多い。

 

ジェンダー

シス…生まれつきの肉体的性別と、自分が決める性別が、ほぼ一致している

トランス…生まれつきの肉体的性別と、自分がこうだと思う性別が違う(生まれつきの肉体は女だが、自分が思うに自分は男である、など)

X…男女どちらでもない/男女どちらでもある

セクシャリティセクシュアリティ

ゲイ…同性が好き、男性として男性が好き

レズビアン(ゲイ)…女性として女性が好き

バイ…男性も女性も好き

パン…同性も異性もトランスもXも好き

Aセクシャル、アセクシャル…性愛の情を抱かない

ジェンダーセクシャリティ

エスチョニング…まだ自分が男女またはXのうちどれであるか決めていない。また、どの性が好きか決めていない、迷っている

 

以上!まちがってたら教えてね。

 

あしたはバレンタインデイ!!!いえーい。

青のフラッグ39話、40話の感想を述べ、コメ欄のほんの一部をあたかも全体であるかのように扱い文句をいうエントリ

コメント欄熟読おばさん(再度)

青のフラッグ41話が更新されるのは2月13日ギャレンタインデーの日だった今日じゃないそれはまちがいない。

というわけで朝からホットケーキ(パンケーキたべたいパンケーキたべたいパンケーキたべた芸人はKUSAI♡)焼きつ食べ焼きつたべ、朝から雨で私は青のフラッグ40話をよみかえしコメント熟読、39話を読みかえしコメント熟読。そう私はジャンププラスとYouTubeのコメント欄熟読おばさんとして活躍中のバスティンロビンス(サーティワン)なのだ…。

 

青フラ39話おさらいと感想

自分と同じ女性にしか性的感情を抱けないことで悩みつづけるキャラクター真澄ちゃんが、ついにアキコ(トーマの姉)に悩みを打ち明ける。すると(私的には)驚きのお悩み相談アドバイザーとしてのアキコの顏が明らかとなる。

「好きになる人が普通の人と違う?」アキコはしょっぱなからぶっ放す。「それってどっちの問題かしら? 性的指向/セクシャル・オリエンテーション? 性的嗜好/セクシャル・プレファレンス?」〝好きになる人が普通の人と違う〟という情報だけで指向・嗜好を持ち出すアキコの日本人離れした知識には驚かされるが、「あっあっ ちょっと待って……ごめん……それはいいわ。ごめんね。どっちだったらどうって話じゃないし」というアキコ氏。つまり、「指向でも嗜好でも悩んでることに変わりないんだものね」というアキコの態度におったまぶったま目ん玉とびでるんだ。指向と嗜好。その2点の違いを強調すれば、たとえば同性間における恋愛結婚の正当性を証明するのも簡単なのだが、そこに逃げず、真澄ちゃんの悩みに真摯に向き合ってる。簡単に人を裁こうとしない、アキコの深さ寛容さやさしさがにじみ出ている一コマ(じっさいは11コマくらい)である。

ちなみに真澄ちゃんは性的指向のことで悩んでいる。少し前に杉田水脈という議員が、 性的嗜好と指向をごちゃまぜにして話し、間違った知識をおしげもなく披露してくれたことがある。そのとき一部インテリ層がその点を指摘した。差別的という流れはもちろんあるもののさ、私のなかでは、水脈はん、ふつうに知識が間違ってるだけやん、となった。つまり複合的に杉田水脈さんは勉強不足だということになった。だがしかし、青フラのアキコがいうように、また『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』の作者ペス山ポピー氏のように、性的嗜好のことで悩んでいる人もいるのが事実である。安易に指向と嗜好は違う(指向の勝ち!)とせず、「他者と共感しあえない」「人にいえないことを抱え、抱えていることに罪の意識を抱き、自分を罰してしまう」など、等身大の気持ちに寄り添った描写ができる青フラ作者KAITO氏、やるな。

 

しかしそんななか、コメント欄に発見して息が止まりそうになるのが「アキコの谷間問題」である。以下抜粋。

「やっぱり妊婦が胸の谷間見せてるの気になる

この姉さん頭悪いかユルいんだろなと思ってしまう」

この偏見払拭漫画で、まさかのド偏見コメンツである。

そう、アキコは基本的に谷間をあらわにしているキャラクターだ。妊婦で、お腹もかなり大きくなっており、さぞかし胸も張って痛かろうと思う。大きくなりすぎた胸のその谷間がかなりの確率でむきだしてある。妊婦のデコルテが美しいというのは常識だと思うが、一部読者はそのお胸をどうにか隠してほしいらしい。

アキコの胸元に関するコメントは、なにもいまに始まったことではなく、前々からあった。「旦那さんいるのに露出しすぎ」「妊婦なのに」だのなんだのと胸×妊婦×既婚を関連づけているコメントを見ると、こりゃ日本の負の部分だわなと感じる。まみの件もそうだが、女が媚びてるだのぱいおつだのぱいおつは男子をむらむらさせるためだけにあると信じている男子&女子&おばさま&おじさま連中は自らを恥じるべし。(が、じつはきもちはわからんでもない。自らの腹の底に眠っている男尊女卑的感情!!!! これをわたしは嫌悪する)

 

青フラ40話おさらいと感想

というわけでというわけで、青のフラッグ41話が待ち遠しいことこの上なき一週間をきもちよくスタートさせるべく40話のおさらいをいたしましょう!

文化祭の終盤、まみとトーマは教室でふたりきり。まみはトーマに再度好きだといい、しかし友人として付き合いたいのだという。以下、せりふを要約する。

「アタシが男だったら、トーマへの異性愛的な〝好き〟は同性間の友情としての〝好き〟になり、周りにも文句など言われず、1番の親友になれていたはずだ」

また、たびたび愛の告白をしてくるケンスケに関しても言及する。

「好いてもらえるのはうれしい。でもアタシがケンスケを好きになれないのは仕方のないことだから、それを責められるのは不快である」

さらに、「アタシに触られるのは気持ちが悪い?」とトーマに訊く。ここでの「気持ち悪い」はおそらく、性的感情が込められているように感じられるかどうかという話だろう。まみ的には、男同士の友情〟を模したような感覚で触っているのだが、トーマに気持ち悪いと思われていたら本末が転倒してしまうので確認したいのだろう。

ところでこの教室の一件の前に、トーマは太一に告白しかけており、触りかけている。壁ドンならぬ手すりドンをしながら、おれがほんとに欲しいものを教えてやろうかととてもイケメンに許された発言をしている。しかし太一の表情などから嫌悪(じっさいは恐怖)を感じ取ったトーマは、思いを告げずに退散する。トーマが〝好きな人に気持ち悪いと思われたくない〟という感情を神経むきだしの生の状態で抱いていたふたりきりの教室で、まみに共感を覚えていたのは明らかだろう。共感というかシンパシーというか瞬間、心、重ねてというかシンクロに近いモノがあったろう。トーマはついにまみに「好きな人がいる」といった。またせりふで言及されたわけではないが、暗に一ノ瀬太一の名前を出したのではないかと思われるような描写も見られる。それなので、「おれが好きなのは」のあとに本音を話したのであろうことは間違いなさそうだ。

廊下ですべてを立ち聞きしていたケンスケがぶちぎれて飛び込んできて胸ぐらつかんでわっちゃーってなる。その隣にいたしんご(人気投票1位確実カチューシャ男子)の痛ましい表情ときたらこれはもう……。しんごの表情が物語る、まみもケンスケもトーマもみんなの辛苦と愛がおいたわしや!!!!!というような。しんご……っ!

同じとき、文化祭学園祭のリアの充的なメインイベントを講堂体育館で見ていた太一とふたばだったが、隣にいた野球部2人組のところにメールおよび一本の電話が入る。野球部員いわく「一ノ瀬!!!」「トーマが!!!!!」(本編には「!」多用するようなお下品さはいちみりもございません)

最後の見えていた世界が変わる。〟という煽り文句からして、次週はトーマの性的指向が周囲(すくなくとも太一)に明かされるのだろう。

設定を更新したよ!あとテニスン

かわいいぷるぷる海のブログになった。コメントも書けるようにしたのだっ。そして…書評ブログではなくただの日記になったようだ。2018年11月23日。

 

ホームランドという、テロリストとCIAが不倫するドラマあるやん。アメリカ軍人むきむき男性が、戦地で監禁&洗脳のすえテロリスト側に寝返るの。監禁は十年くらいだったと思う。むきむき男性には妻と二人の子供がいたんだけど、監禁されているあいだに、地元の親友に妻を寝取られちゃうんだよね。

ウォーキングデッドという、ゾンビもののドラマあるやん。アメリカ保安官男性が、昏睡状態で入院しているあいだにゾンビだらけの町で妻を寝取られちゃうんだよね。

こうした三角関係(NTRかどうかは別として)パターンは、テニスンの物語詩『イーノック・アーデン』(1864)が一番最初っぽいのですよね。英米で発展して書き継がれている牧歌的(エレイジャック)ロマンスなるものも思えばテニスン発祥なのかしら。夏目漱石テニスンを読んでいたしですね。われわれの血脈。肌の色より骨盤のつよさよりずっと濃ゆいわよ。

『地球星人』村田沙耶香

芥川賞作家 村田沙耶香『地球星人』

 

今日は村田沙耶香の新作『地球星人』の感想を書きたいと思います。アマゾンアソシエイトに参加しています。

 

 

あらすじ

小学六年生の夏に性暴力を受けて、奈月の身体は故障した。母と姉に虐待される生活のなか、唯一の味方であるいとこの由宇と「なにがあっても生き延びること」を誓いあい恋人同士となるが、ある事件をきっかけに引き離されてしまう。

22年後、34歳の奈月は性的関係を結ばないことを条件に人嫌いの智臣と結婚し、ルームシェアのような同居生活を送っていた。しかしその平和な生活は、二人に「地球星人としての夫婦生活」を強いる親類縁者により破壊されてしまう。

奈月と智臣は、長野の限界集落へ逃れ、いとこの由宇も引き入れて、異星人として生きていくことを選択する。

 

感想(ネタバレ注意)

主人公の奈月は、世の中を「地球星人」の運営する「人間工場」として見ている。彼女の目には「宇宙人の目」が備わっているとされる。翻訳するとこれは「常識を脱ぎ捨てた目」、「赤ん坊の目」つまり哲学者や民俗学者の目のことであるとわたしはおもう。

奈月は小学生のころから、周囲をよく見ている。自分を虐待し、家庭の支配者のようにふるまう母や姉が、じつは学校や職場では疎外された存在であることを知っている。その観察眼の視野はひろく透きとおっている。

さらに奈月には抑えの効いた自己批判精神がある。「地球になじめない」ことを他者のせいにはしない。自分自身が「地球星人の洗脳をきちんと受けられない」ためにそうなのだと独白する。〝私の子宮も、夫の精巣も、きっと私たちのものではないのだろう。それなら、早く脳まで洗脳してほしい。〟そう考える奈月にナルシシズムは感じられない。だが読者には、この悟りがむしろ悲しく冷えてみえるだろう。はやくその独自性でこの世界を改革してくれと思ってしまう。いとこの由宇も同じで、「人間工場」になじめず、なじもうとしながら生き延びてきた。彼が身に着けた「常識」は、彼を安心させる。〝常識は伝染病なので、自分一人で発生させ続けることは難しい。〟そして、〝常識に守られると、人は誰かを裁くようになる。〟悟った奈月と、奈月を社会常識で裁く由宇。読者はしだいにモヤモヤしはじめる。これらのフラストレーションを解消してくれるのが、奈月の夫・智臣の言動である。滑稽で愛らしいキャラクターとしてデザインされている智臣は、奈月とは反対に、世の中に迎合することを極端に嫌っている。

〝「何で僕が、僕であることを(他者に)許されなければいけないんだ。まっぴらだ!」〟〝「本当に怖いのは、世界に喋らされている言葉を、自分の言葉だと思ってしまうことだ。」〟など、はっとさせられる名言をいくつも放つ。

 

また、「社会常識というウイルスに侵された人間は、人を裁く」というテーマが描かれるもうひとつの重要な場面がある。

奈月が性暴力被害者であると親友に打ち明けたときのことを、思い返すシーンである。その親友は、伊賀崎先生がイケメン青年だったことを理由に奈月の性暴力被害は「妄想だ」として、むしろ奈月を責めた。

以前ジャニーズの一員により起きた「女子高生強制わいせつ事件」を顧みれば、同等のことが起きていたのだとわかる。『イケメンにいきなりキスされてもいいじゃん』というおぞましい「社会常識」が、性暴力被害者を生み出しつづけているのである。

智臣が最初に近親相姦(強姦)をすると宣言したとき、由宇はあわてて止めたが、奈月は〝「そんなことは、目に見えないだけで、世界中で起きていることだよ。それがまた起こる。それだけのことだよ」〟という。この「一般化」は、心的外傷を和らげる方法として手っ取り早い応急処置である。ここにも奈月の葛藤の一端があらわれている。

〝世界は恋をするシステムになっている。恋ができない人間は、恋に近い行為をやらされるシステムになっている〟。この社会システムの犠牲になった奈月のような人間は、読者が想像しているよりはるかに多いだろう。そしてこの犠牲者たちが、いまは少数だろうが、いつかシステムは転覆させ、新たな世界を創造するのかもしれない。

 

いまの地球星人は「人間工場」において、働く道具と産む道具を製作しつづけている。社会常識は、工場運営の効率化のためのウイルスに過ぎない。そのウイルスは大衆に素早く伝染して、他者を裁かせ、犠牲者を量産する。

洗脳を受け入れてあるていど楽に生きるか、それともポハピピンポボピア星人になって真に生きる道を手に入れるか?

現実世界でも、この2つのうちどちらかを選ぶことができるだろう。なぜなら作中における長野県秋級の限界集落と同様、人間のいなくなった「工場跡地」がいまやあちこちに存在するので、ポハピピンポボピア星人が台頭しやすい環境が整いだしているのだから。

地球星人は常に「宇宙人の目」で見られていることを意識したほうがいい。そして、ある場合にはこの「宇宙人の目」を自分自身にダウンロードし、世の中を見回すことが必要なのだ。社会システムの犠牲者を増やさないためには、なおさらこの目が要るだろう。

 

 

☆おまけポイント

〝千葉の家だと小さなハエが入って来ただけで大騒ぎなのに、母や姉もおばあちゃんの家ではいちいち騒ぐことは無い〟など、都市と田舎の家のちがいが一文で表現されていて、さすがと思う。ほんとそうだよね!! また、土葬、数珠回し、送り火、お蚕様などの文化、おやき、すいこなどの食文化も随所に登場しほんのりとした郷愁を誘います。

 

平成最後の恋――『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』

 『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』あらすじと5つのみどころ

 

おはようございます。猫と一緒に昼寝っぽ。りょうごくらむだです。

 

さきほど、郵便受けに『ボコ恋』こと『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』2巻(ぺス山ポピー著/新潮社)が!!!届いた!

ああぁぁぁーーーーー(;;)号泣

くらげバンチ連載中から繰り返し読んでたよ。さっそく感想をかくぞ。

 

 

あらすじ

23年間恋愛経験なしだった極めてマゾヒストな「私」。殴られることでしか性的興奮を覚えられず、いわゆる〝恋愛〟や〝セックス〟には嫌悪感があった。

こどもの頃、大好きだった祖母に「(恋愛・結婚しないと)人として生まれた意味がない」と言われてしまったことから、自罰的な性格を内在させていく。

とはいえ世間一般の人たちと同じように、相手のいるプレイがしたい!……覚悟をきめた「私」は、出会い系サイトで暴力系プレイのパートナーを探しはじめる。

フリーザ様」「鏡餅」など個性的な男性たちと出会い、ラブホにて暴力プレイを体験していくうち、やがて自らのマゾヒズムに潜在した、もう一つのアイデンティティに向き合うこととなる。FtMトランスジェンダートランスセクシュアル、さらには性的指向がゲイであることの自認に至った(※1)「私」は、その激動の自我再認識のなかで、運命の恋をする。

 

(※1)

FtM…フィメール(女性)→メール(男性)

トランスジェンダー…社会的に男性。トランスセクシュアル…性的に男性。

性的指向がゲイ…LGBTのG。「嗜好」ではなく「指向」

 

 

みどころ1:論理的な文章

 

〝なぜ暴力で興奮するのか?〟〝これは恋なのか?〟など、とことん自らに問うポピーさん。ごちゃごちゃになりかねない思考を、整理しなおしてから、短い文章にエクスポートしてくれる。枠が限られることで言葉は圧縮されがちだけれど、なぜだかポピーさんの文章はのびのびしている。きもちよく直球でぎゅんと伝わってくる。

 

「苦痛と絶望の最中、股間だけがバグを起こす」

「女を実感する、させる、自分の肉体を肯定する、肉体を受け入れる行為」

「私にとって暴力は、肉体を否定するため 私から女性性を遠ざけるための破壊行為」

「性欲とはまた別の所のなんともあったかい魂の慟哭」

 (『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』より引用)

 

 

みどころ2:詩的な絵

初めて彼に殴られた瞬間の、激烈な衝撃、耐えられないような肉体的苦痛のひとつひとつ。

殴り倒されてうつ伏せになった「私」の、狭まった視界の端にうつる、彼のペットボトルのお茶。静かにのぼる気泡をみている。先々、初恋のシンボルとなって何度も登場する気泡とモノローグ。

存在をゆるされた気がしたときの自分の影。

恋に溺れ、浜に打ち上げられたときのお魚や太陽。

など、など、絵の表現に詩があって、読んでいて心底癒される。

 

みどころ3:お助けキャラ

作者には性や恋愛について真剣に語りあえる幼馴染がいる。彼らがすごくいい味を出している。孤独を深めがちなマイノリティ描写の中で、彼らお助けキャラの役割はとても大きい。出てくるだけでホッとする。

いや「語りあえる」なんていったけど、それじゃなんだか安い言葉になっちゃった気がする。「性とジェンダーの話を茶化さずにできる友達(とか恋人とか家族)」って、ほんとに大事だ、と思わされる。そういう人を、もっと大事にしようと思った。

 

みどころ4:パーカー好き。いいにおいのするパーカーはもっと好き。

 パーカー神が舞い降りた…。

 

みどころ5:自我

(こっからちょっとなげえです。しかも学者っぽいつまらないこといいます。はい。)

森鷗外は『舞姫』で近代人の自我を描いた。よく知られているそのストーリーは「官吏の豊太郎はドイツ留学中の恋愛相手エリス(発狂・病)を置き去りにして日本に帰国した」というもので、豊太郎ゲスやなぁ~とする声が現代日本の教室ではよく聞かれる。

だけど、当時いわゆる「近代社会=個人主義者いぱい」のドイツとはちがって日本には「封建社会=家&国家に属してます主義者」のなごりがこびりついていた。ドイツで近代的個人主義者になりかけてた豊太郎だけど、生まれ育った日本が大事だった。国家が家が大事だった。だからエリスと結ばれることはできなかったんや…。

ぐすん。

とはいえ、やはり1900年代の作品だ。2018年の我々からすると「なんで豊太郎はエリスを棄てたの?」と(時代背景を知らなければ)思ってしまう。豊太郎がダメンズのように見えてしまうし、そのつづきである鴎外の作品『普請中』の主人公渡辺も似たようなダメなヤツに見えてしまう。

 

2100年代の未来に『ボコ恋』を読んだ若い読者が、『舞姫』を読んだ若い読者のように、「なんでポピーちゃんは大好きな彼に自分の性自認を隠すの?」と時代背景を知らずに首をかしげていたらいいな、と想像する。ゲイの友人らと語り合うポピーさんはドイツ留学した豊太郎で、パーカーの彼の前のポピーさんは日本に帰国した豊太郎なのだ……(学者っぽい糞ライターっぽい悦にひたる←この自意識←再度自意識)

そうしたこともあり、『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』は、おわりかけの平成を飾るのにふさわしい恋愛ストーリーだと思う。

 

蛇足だけど私がふだんモヤモヤしてることをかいとこ。↓

まだまだ「ヘテロ・シスジェンダー・モノガミーの恋愛セックス上等」の価値観が意識の根底に残っている世の中だ。これにはもちろんマジョリティの感覚も関与しているが、しかしトランス、ゲイ(女のゲイも)といった「当事者」といわれるひとたちも、「多数派上等!おれらはマイノリティひっそり生きよ。デモとかうるさくすんのやめよ。」と自虐するし、自分が当事者だから自虐くらい許せよとばかりに差別的用語(ゲイが自分をホモと呼んだり、女性のゲイが自分をレズと呼んだり、MtFが自分をおかまとよぶ(シスヘテロ向け水商売をしていないかぎり(しててもその言葉をきくと差別的響きージェンダーの押し付けーを感じて私はそわそわするけど)、おかまは差別的用語だと思う。)で自らを呼称している。ほんとこれ気になるねん。いや、当事者のやさしさ。やわらかさ。寛容さ。わかるよ。好きだよ。「自分は別に自分を上等と思ってない」という高度な自意識。でも、それを越えていこうぜ、お願いよ。

 

まとめ

2巻の裏表紙………、眺めてるだけで涙でてくる…、うひぃん(;;)

 

心にくるような出会いがあったときに頭の中でぐるぐる考えつづけること…、

女として好きなの? 人間として好きなの? 男だと思ってんの? 恋なの? セックスだけなの? 友情なの? なんなの?

そうやって考えた末に、結局、蓋をするしかなかったような問題の数々に対し、本作はひとつの稀有な視点を与えてくれる。

それは作者のペス山ポピーさんが実地に経験したことから成っている。人生そのものから本質をいくつも絞り出して、絵と文章で私たちに向けて表現してくれて、ありがとう。 

 

 

 

 

 

ホイッスルーー第159回芥川賞受賞『送り火』論

はろーはろーはろーん。ミニストップな季節ですなぁ。

どうもぷにぷにライターのらむだりょうごくです。

 

以前のエントリで第159回芥川賞受賞作品『送り火』(高橋弘希著)について感想をかきました。↓ 

第159回芥川賞受賞『送り火』高橋弘希 - 感想

が、なんだかヒデェ文章書いちゃったな…とずっとおちこんでました。

というわけで、こちらのエントリにて追記しまっしゅぶる。

(高橋さん、弘希のきは希望のき!)

 

「文学界」2018年9月号の陣野俊史氏の寄せた「高橋弘希論――暴力と共同体」を読んでいたら、『送り火』について以下のように述べられていました。

〝稔は、「腫れあがった瞼の奥」で目を光らせると、こう言い放つのだ。「わだっきゃ最初から、おめぇが一番ムカついでだじゃ!」(段落)ここにあるのは、共同体に外部から参入しようとするものを強く排除する思想である。稔という小集団の成員は加害者である晃をまったく憎んでいない。方言をほぼ理解しないまま、共同体の内部に留まろうとする外部者を、どこまでも追い返すことしか念頭にない。文学界2018年9月号「高橋弘希論――暴力と共同体」より引用)〟

これは私の個人的意見ですが、「もへ…ちがう気がすり…」と思いました。

だってだってだって、稔は晃にも復讐したかったけど、傍観者的かつ「この共同体からいつか出ていくから」って渡り鳥みたいに飄々としていられる「抽象的」な歩の方が、よりムカつく存在だっただけやないの…。わかるやん。そのきもち。わかるやん。

 

陣野氏は大学院で「芥川賞受賞作を候補作も交えて順番に読む」という講義をしたそうです。そして、いくつかの作品には『送り火』にも通じる共通点があるのだというのです。第1回芥川賞受賞作品である『蒼石川達三著)から、『コシャマイン記』鶴田知也『城外』小田獄夫著『地中海』冨澤有為男著

そりから、『密猟者』(寒川光太郎著)

あと選外だったのに掲載されたという『光の中に』(金史良著)まで。

その芥川賞受賞作品群の一貫した共通点とは、

日本という国家から排除された人々に焦点を当てているということだ。ブラジル移民、満州への入植者、アイヌの民マタギ等など、共同体と排除の構造がつねに芥川賞受賞作の根底にあった。〟

そして!

〝『送り火』という芥川賞受賞作は、おおよそ八十年前、日本が戦前から戦争へと突っ込んで行った時期に書かれた傑作小説群を、構造はそのままに日本の一地方に内面化した小説のように読める。文学界2018年9月号「高橋弘希論――暴力と共同体」より引用)

と!!!

 

(おい!!私!!!引用しすぎか!!?? わからん…ネットリテラシーわからん。問題あったら消しますが…エゴサするので誰か…Twittert(やってない)でクレームを呟いてくれ…>< ←あくまでコメント欄を開放しない強者)

てかおまえらこれ読んだら『文学界9月号』買えよ!?ぜったい買えよ!?

買わなかったらけつにキスしろ^^ ←上手なステマ

 

つまり陣野俊史氏は、

送り火』の主役は疎外された歩!!!

て言っているのですよね。

 

ぷぅん…くぅん…(涙目の犬) 

私はそうは思ってないんです…。(意見の相克に苦悩する30歳ジャポネーズェ)

 

前回のエントリで私は「というかたぶん稔が主役なんだろうなぁ」と書いています(第159回芥川賞受賞『送り火』高橋弘希 - 感想

より引用)

その意見は変わっておらず、むしろ強められる一方で…

はい、稔なんですしゅやくわ^^

 

「ほんとうに疎外されているのは誰や…?」と考えてみてください。

歩なんてこれからグローバルバカになってチート人生るんたたた、モテる♪ て感じです100ぱー。

ほんとうに世界から疎外されてるのは稔や……。

そして、晃であり、クリエイティビティヤンキーであるのや……。

まあ、あるいみ歩もなんだけどね。

登場人物みんなが、共同体から弾かれているわけですよ。この『送り火』という作品は。そして自然が美しき怒号を発しているんですよ。この『送り火』という作品は。(なんで2回いうかというと、SEO対策。だからブログは嫌ッ><)

 

ここらでちょっと、「文学界」2018年8月号の小林敏明氏の寄せた「故郷喪失の時代」という評論をみてゆきましょう。(おまえら文学界は買え。最近かなりいい。持ってて気持ちいい。表紙を撫でてて昇天しそうになるレベルだ。)(あなたたち、文学界は買いなさい。ここのところイッちゃいそうになるくらい素敵な装丁です。実質もともなっていますよ。)←悪魔と天使の占い大好きな人のかんがえた文章

 

「文学界」2018年8月号に、ライプツィヒ大学の教授である小林敏明氏が「故郷喪失の時代―第一回 フクシマ以後を考える」という評論を寄せています。

(これがめっちゃおもちろいーー!だいしゅき////////)

 

この評論のなかでは、まず石牟礼道子の『苦海浄土ーわが水俣病』のあとがきについて触れられています。

〝地方を出てゆく者と居ながらにして出郷を遂げざるを得ないものとの等距離に身を置きあうことができれば私たちは故郷を再び媒体にして、民衆の心情とともに、おぼろげな抽象世界である未来を共有できそうにおもう。(「故郷喪失の時代」―石牟礼道子苦海浄土ーわが水俣病』あとがきより抜粋)〟

これを受けて、小林氏はこう語ります。(字を太くします。失礼します)

故郷に住みながら心情において故郷を出るとは、その故郷の荒廃が耐え難いまでに進行してしまい、いまや心情にしか残された道はないという切羽詰まった筆者の置かれた現実を示唆すると同時に、その現実が自分の意思をもつぶしてしまいそうな重圧として立ち現れているということである。〟

 

レヴィ=ストロースも言うてます。「都市は田舎を踏み台にして発展していく」と。(悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース著)から抜粋)

 

てめぇら、田舎を無視すんじゃねえよ。ナカケンさん(中上健次)読めよ。もう村上春樹の時代じゃないのよ♡あんしんしてね、蓮實さん。

 

というわけで、高橋弘希の『送り火』を、

土着人文学の逆襲、はっじまっるよー!!!!!

のホイッスルとして読むのも面白いかと、思います。

げんに、全員ぶっ殺す状態に陥ったスーパー稔に対してクリエイティビティヤンキーたちは、

〝神降ろしばしでまっだ、彼岸様ァ、此岸さおいでになられだ!〟

と、地元ならではの神降ろしを稔にあてはめてるし、

ぶっ殺しのめにあった歩も、

〝赤黒い稔の顔面と、赤黒い柳のカス札が、同時に脳裏を過ぎり、それは重なって混ざり合い、背後に迫っているものは、あの枠外から伸びてくる鬼の手と同じ種類のものかもしれない、〟

と、燕雀(えんじゃく)の鬼札を想起していて、この鬼札というのがまた地域特有の「鬼に寛容な」文化を象徴している。

(すべて『送り火』より引用)

 

 

 

はー、巻きでいけなかった。カップ麺くいます。

きょうはちょっと、涼しい日。

 

 

送り火

送り火

 

 

 

文學界2018年9月号

文學界2018年9月号

 

 ↑陣野氏の送り火論が載ってるよー!

 

テロルの伝説:桐山襲烈伝

テロルの伝説:桐山襲烈伝

 

 ↑陣野さんの本!

 

文學界2018年8月号

文學界2018年8月号

 

↑「故郷喪失の時代」載ってるよ~!『ファースト・クラッシュ』ごりごりの山田詠美だった!!♡♡めちゃ当たり回、否、当たり界!

 

↑ここから飛んで買うと(おなじブラウザだと?)このブログの著者にAmazonポイントが入るヨ!  ブラウザを変えれば入らないはず!