感想

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平成最後の恋――『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』

 『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』あらすじと5つのみどころ

 

おはようございます。猫と一緒に昼寝っぽ。りょうごくらむだです。

 

さきほど、郵便受けに『ボコ恋』こと『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました』2巻(ぺス山ポピー著/新潮社)が!!!届いた!

ああぁぁぁーーーーー(;;)号泣

くらげバンチ連載中から繰り返し読んでたよ。さっそく感想をかくぞ。

 

 

あらすじ

23年間恋愛経験なしだった極めてマゾヒストな「私」。殴られることでしか性的興奮を覚えられず、いわゆる〝恋愛〟や〝セックス〟には嫌悪感があった。

こどもの頃、大好きだった祖母に「(恋愛・結婚しないと)人として生まれた意味がない」と言われてしまったことから、自罰的な性格を内在させていく。

とはいえ世間一般の人たちと同じように、相手のいるプレイがしたい!……覚悟をきめた「私」は、出会い系サイトで暴力系プレイのパートナーを探しはじめる。

フリーザ様」「鏡餅」など個性的な男性たちと出会い、ラブホにて暴力プレイを体験していくうち、やがて自らのマゾヒズムに潜在した、もう一つのアイデンティティに向き合うこととなる。FtMトランスジェンダートランスセクシュアル、さらには性的指向がゲイであることの自認に至った(※1)「私」は、その激動の自我再認識のなかで、運命の恋をする。

 

(※1)

FtM…フィメール(F:女性)→メール(M:男性)女性から男性へ性別適合を望む。

トランスジェンダー…生まれたときの性別と自己の性自認が違う。

トランスセクシュアル性自認が生まれたときの性別と違うので性別適合手術をする。

性的指向がゲイ…LGBTのG。「嗜好」ではなく「指向」

 

 

みどころ1:論理的な文章

 

〝なぜ暴力で興奮するのか?〟〝これは恋なのか?〟など、とことん自らに問うポピーさん。ごちゃごちゃになりかねない思考を、整理しなおしてから、短い文章にエクスポートしてくれる。枠が限られることで言葉は圧縮されがちだけれど、なぜだかポピーさんの文章はのびのびしている。きもちよく直球でぎゅんと伝わってくる。

 

「苦痛と絶望の最中、股間だけがバグを起こす」

「女を実感する、させる、自分の肉体を肯定する、肉体を受け入れる行為」

「私にとって暴力は、肉体を否定するため 私から女性性を遠ざけるための破壊行為」

「性欲とはまた別の所のなんともあったかい魂の慟哭」

 (『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』より引用)

 

 

みどころ2:詩的な絵

初めて彼に殴られた瞬間の、激烈な衝撃、耐えられないような肉体的苦痛のひとつひとつ。

殴り倒されてうつ伏せになった「私」の、狭まった視界の端にうつる、彼のペットボトルのお茶。静かにのぼる気泡をみている。先々、初恋のシンボルとなって何度も登場する気泡とモノローグ。

存在をゆるされた気がしたときの自分の影。

恋に溺れ、浜に打ち上げられたときのお魚や太陽。

など、など、絵の表現に詩があって、読んでいて心底癒される。

 

みどころ3:お助けキャラ

作者には性や恋愛について真剣に語りあえる幼馴染がいる。彼らがすごくいい味を出している。孤独を深めがちなマイノリティ描写の中で、彼らお助けキャラの役割はとても大きい。出てくるだけでホッとする。

いや「語りあえる」なんていったけど、それじゃなんだか安い言葉になっちゃった気がする。「性とジェンダーの話を茶化さずにできる友達(とか恋人とか家族)」って、ほんとに大事だ、と思わされる。そういう人を、もっと大事にしようと思った。

 

みどころ4:パーカー好き。いいにおいのするパーカーはもっと好き。

 パーカー神が舞い降りた…。

 

みどころ5:自我

(こっからちょっとなげえです。しかも学者っぽいつまらないこといいます。はい。)

森鷗外は『舞姫』で近代人の自我を描いた。よく知られているそのストーリーは「官吏の豊太郎はドイツ留学中の恋愛相手エリス(発狂・病)を置き去りにして日本に帰国した」というもので、豊太郎ゲスやなぁ~とする声が現代日本の教室ではよく聞かれる。

だけど、当時いわゆる「近代社会=個人主義者いぱい」のドイツとはちがって日本には「封建社会=家&国家に属してます主義者」のなごりがこびりついていた。ドイツで近代的個人主義者になりかけてた豊太郎だけど、生まれ育った日本が大事だった。国家が家が大事だった。だからエリスと結ばれることはできなかったんや…。

ぐすん。

とはいえ、やはり1900年代の作品だ。2018年の我々からすると「なんで豊太郎はエリスを棄てたの?」と(時代背景を知らなければ)思ってしまう。豊太郎がダメンズのように見えてしまうし、そのつづきである鴎外の作品『普請中』の主人公渡辺も似たようなダメなヤツに見えてしまう。

 

2100年代の未来に『ボコ恋』を読んだ若い読者が、『舞姫』を読んだ若い読者のように、「なんでポピーちゃんは大好きな彼に自分の性自認を隠すの?」と時代背景を知らずに首をかしげていたらいいな、と想像する。ゲイの友人らと語り合うポピーさんはドイツ留学した豊太郎で、パーカーの彼の前のポピーさんは日本に帰国した豊太郎なのだ……(学者っぽい糞ライターっぽい悦にひたる←この自意識←再度自意識)

そうしたこともあり、『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』は、おわりかけの平成を飾るのにふさわしい恋愛ストーリーだと思う。

 

蛇足だけど私がふだんモヤモヤしてることをかいとこ。↓

まだまだ「ヘテロ・シスジェンダー・モノガミーの恋愛セックス上等」の価値観が意識の根底に残っている世の中だ。これにはもちろんマジョリティの感覚も関与しているが、しかしトランス、ゲイ(女のゲイも)といった「当事者」といわれるひとたちも、「多数派上等!おれらはマイノリティひっそり生きよ。デモとかうるさくすんのやめよ。」と自虐するし、自分が当事者だから自虐くらい許せよとばかりに差別的用語(ゲイが自分をホモと呼んだり、女性のゲイが自分をレズと呼んだり、MtFが自分をおかまとよぶ(シスヘテロ向け水商売をしていないかぎり(しててもその言葉をきくと差別的響きージェンダーの押し付けーを感じて私はそわそわするけど)、おかまは差別的用語だと思う。)で自らを呼称している。ほんとこれ気になるねん。いや、当事者のやさしさ。やわらかさ。寛容さ。わかるよ。好きだよ。「自分は別に自分を上等と思ってない」という高度な自意識。でも、それを越えていこうぜ、お願いよ。

 

まとめ

2巻の裏表紙………、眺めてるだけで涙でてくる…、うひぃん(;;)

 

心にくるような出会いがあったときに頭の中でぐるぐる考えつづけること…、

女として好きなの? 人間として好きなの? 男だと思ってんの? 恋なの? セックスだけなの? 友情なの? なんなの?

そうやって考えた末に、結局、蓋をするしかなかったような問題の数々に対し、本作はひとつの稀有な視点を与えてくれる。

それは作者のペス山ポピーさんが実地に経験したことから成っている。人生そのものから本質をいくつも絞り出して、絵と文章で私たちに向けて表現してくれて、ありがとう。