感想

くらげなす漂うアメリカンアパレル

ネットで批判するときはまず「自分は間違っているかもしれない」と思うべし…

こんにちはりょうごくらむだです・・・

昨日からの恐ろしいニュースに涙が止まらない。22歳。猫ちゃんもいて。あぁああああ!!!!

 

テラハは見たことない。(クロちゃんのモンスターハウスでなんとなく雰囲気は知ってるつもりでいるくらい。)

見たことないけど、テラハ的なものの視聴者が批判・誹謗中傷してる感じはものすごい想像がつく。なぜならわたしはコメント欄熟読班長だから。

 

論点1、コメント欄熟読班のわてくし

YouTubeのコメント欄・Yahoo!ニュースのコメント欄が、情弱なわたしの主なコメント欄熟読処である。

コメント欄の何がおもしろいって、「世の中にはどんな人間でもいるんや」ってことが分かるところだ。

たとえば、捕鯨再開のYahoo!ニュースがあったとする。

コメント欄には、賛成する人or反対する人or中立の人がいる。

そして、賛成する人の賛成する理由にもAやBやCといったパターンがある。

反対する人の反対する理由にもDやEやFといったさまざまなパターンがあり、「みんな同じ意見」では決してない。

だからおもろいのだ。

さらに、(ここからわたしの性格のどす黒さがでてくるのだが)

コメント欄に書き込む人を、「あほやなぁ」と少し上の斜めのビルから見下ろす自分が心地よいというのもある。

なんで「あほやなぁ」なのかというと、

コメント欄激論連中は大抵の場合、反対意見を持つ者を「間違っている」と思っているからだ。

「自分は正しい。相手は間違っている」

そう思うのであれば、相手だってそう思っている。「自分は正しい。相手は間違っている」と相手はそう思っている。

さらにガチ身が加速しだすと、「自分は正しい相手は間違っている、だから相手は存在してはならない」という思考回路に陥る。

プロの批判ライター武田砂鉄さんとか、小林秀雄とか(急に時代が)と違うところはそこだ。

 

論点2、強い弱い

わたしは先日、炎上していたバイリンガールちかさんについての記事を書いた。

テラハの22歳の子のニュースを見て号泣しながら、そのことを思い出した。

長い間ブログをおさぼりしていたので、自分の書いた文章がどんなもんだったかも忘れていた。「まさかワイ………ちかさんのこと誹謗中傷するようなブログ書いてへんやろな……? もしそんなん書いてたら自己批判どころの騒ぎと違うで、、、、顔面にうんPぬりたくりレベルの自己嫌悪や!」

そんなふうに思い、自分のブログを再読。そこまでひどいことは書いてなかったように思う。自分ではそう思う。でも……どうだろうか。他者から見て絶対に「そこまでひどくない」とは限らない。

 

あのバイリンガールちかさんも、テラハの子と同様、すごく強そうに見えた。そのことがコメント欄炎上を加速させたであろうことは明らかだった。

わたしはあのコメント欄を美しいと最初思った。リスナーの人々の心のきれいさ、教養アリアリな感じがコメント欄を美麗にしていると思った。それは本心から、そう思った。

でも、それは、わたしもまた、ちかさんを激強(げきつよ)だと思っていたから…、だからそんなふうに思えるような、余裕を持てたのだと思う。

でも、心の弱さ・強さって、本当に表に出るんやろか。

わたしも、長年(32)生きてきて、相手の表情やしゃべりかた、ファッション、化粧、においなどで、相手の人となりを「だいたいわかったわ^^」と思えるようにまでなっているわけだが……、

しかしあの伊集院光さんでさえ、キンコメの件では「相手を見誤っていた」と言っていたわけだし……、

弱者には優しくしろと教えられてきたが、

「こいつはぜってー強いから叩く!」「こいつは弱いから優しくする!」

それもまた、違うんだよな。

くるりの、上海蟹食べたい♪あなたと食べたいよ♪っていう歌の中で、そういう歌詞があったよね。「見た目の強さに騙されるな、お前とおなじでみんな弱っている」みたいな歌詞がね(うろおぼえ)

 

論点3、自殺

いまはこんなハッピーなわてくしだが、何回も自殺未遂した。おもに薬と刃物。とくに18歳~22歳まではひどかった。なぜあれほどまで死を解決法と考えていたのか分からない。あまりに繊細すぎたといえば聞こえはいいのかな…。いま思えば、自律神経失調症だったこと、喫煙飲酒していたこと、幼いころから大人向け(いまでいうR15)の映画を観すぎて、死ぬしかないと思い込む系の登場人物に感情移入してきたこと……などが、原因の一環になっていたとは思う。

しかしやはり、「言葉」だったと思う。とくに交際相手からの「言葉」に傷つけられ、「こんだけ傷つけられてんのになんであたし元気に息してんだろ?」って思いで自分のからだを痛めつけてた。誰にも愛されてないと思っていた。生きる意味がないと思っていた。

 

それでも、わたしは生き残った。死ななかったのは、幸運だったことと、ご先祖様が守ってくれたというのもあると思う。でもいくらご先祖様だって、守りきれない時もあるかもしれない。(じっさいわたしのご先祖様のひとり(おじいちゃんのきょうだい)は18歳のときに自殺で亡くなっている。)

わたしは、死をたんなる物理現象とは思わない。死んで終わりという考え方はドライで涼し気だ。そのほうが楽になるという考えもあると思う。わたしも以前はそう考えていた。でもじっさいにちかしい人の死を経験し、まわりの反応や自分の心の動きなどをよく見ていくと、そうじゃないのだ、とわかる。

「あの人は死んだけど天国で楽しくやっているはずだ」とか、そんなふうに想像することには、欺瞞や偽善では片付けられない何かがあると思う。

一部にはそれは希望、

その想像力自体が、希望なのではないか。

テラハの子が、天国で最上級ハッピーに生きていることを想像したい。

いつか全人類は消滅して…

猫ちゃんとか、樹木とか、お花も、クジラも消滅して…

いつか、どこかまったくべつの素晴らしいところで最上級ハッピーな再会を果たす。

 

そんなふうに想像する、

そんで想像力をばりばり鍛えて、わるぐちいわれる相手の気持ちを悟れるようになる、

 

ああああ

うまくいえないけれど、

やっぱ、想像力だと思うんだ。

 

「自分は間違っているかもしれない」と、想像する能力が必要だ……。

そして……

 

自分と相容れない者も存在していいに決まってんだろ。おまえが存在してるのと同様さあ。もう存在してるんだからさあ!!

 

てことだ。

つまりプルーストでありカミュなのだ…

その流れを中村文則さんとかがくんでいる……

読むのだ…本を……

だがあまり刺激の強いのは…自殺未遂とかばんばんするやつは影響うけたら困るから…

なるべく18歳になってから、、、な!!

 

あと言葉は人を傷つけるってことを学ぶにもよい。

いつも、水で口を清めたみたいにきもちいい言葉でお話していたいものだ。