感想

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ホイッスルーー第159回芥川賞受賞『送り火』論

はろーはろーはろーん。ミニストップな季節ですなぁ。

どうもぷにぷにライターのらむだりょうごくです。

 

以前のエントリで第159回芥川賞受賞作品『送り火』(高橋弘希著)について感想をかきました。↓ 

第159回芥川賞受賞『送り火』高橋弘希 - 感想

が、なんだかヒデェ文章書いちゃったな…とずっとおちこんでました。

というわけで、こちらのエントリにて追記しまっしゅぶる。

(高橋さん、弘希のきは希望のき!)

 

「文学界」2018年9月号の陣野俊史氏の寄せた「高橋弘希論――暴力と共同体」を読んでいたら、『送り火』について以下のように述べられていました。

〝稔は、「腫れあがった瞼の奥」で目を光らせると、こう言い放つのだ。「わだっきゃ最初から、おめぇが一番ムカついでだじゃ!」(段落)ここにあるのは、共同体に外部から参入しようとするものを強く排除する思想である。稔という小集団の成員は加害者である晃をまったく憎んでいない。方言をほぼ理解しないまま、共同体の内部に留まろうとする外部者を、どこまでも追い返すことしか念頭にない。文学界2018年9月号「高橋弘希論――暴力と共同体」より引用)〟

これは私の個人的意見ですが、「もへ…ちがう気がすり…」と思いました。

だってだってだって、稔は晃にも復讐したかったけど、傍観者的かつ「この共同体からいつか出ていくから」って渡り鳥みたいに飄々としていられる「抽象的」な歩の方が、よりムカつく存在だっただけやないの…。わかるやん。そのきもち。わかるやん。

 

陣野氏は大学院で「芥川賞受賞作を候補作も交えて順番に読む」という講義をしたそうです。そして、いくつかの作品には『送り火』にも通じる共通点があるのだというのです。第1回芥川賞受賞作品である『蒼石川達三著)から、『コシャマイン記』鶴田知也『城外』小田獄夫著『地中海』冨澤有為男著

そりから、『密猟者』(寒川光太郎著)

あと選外だったのに掲載されたという『光の中に』(金史良著)まで。

その芥川賞受賞作品群の一貫した共通点とは、

日本という国家から排除された人々に焦点を当てているということだ。ブラジル移民、満州への入植者、アイヌの民マタギ等など、共同体と排除の構造がつねに芥川賞受賞作の根底にあった。〟

そして!

〝『送り火』という芥川賞受賞作は、おおよそ八十年前、日本が戦前から戦争へと突っ込んで行った時期に書かれた傑作小説群を、構造はそのままに日本の一地方に内面化した小説のように読める。文学界2018年9月号「高橋弘希論――暴力と共同体」より引用)

と!!!

 

(おい!!私!!!引用しすぎか!!?? わからん…ネットリテラシーわからん。問題あったら消しますが…エゴサするので誰か…Twittert(やってない)でクレームを呟いてくれ…>< ←あくまでコメント欄を開放しない強者)

てかおまえらこれ読んだら『文学界9月号』買えよ!?ぜったい買えよ!?

買わなかったらけつにキスしろ^^ ←上手なステマ

 

つまり陣野俊史氏は、

送り火』の主役は疎外された歩!!!

て言っているのですよね。

 

ぷぅん…くぅん…(涙目の犬) 

私はそうは思ってないんです…。(意見の相克に苦悩する30歳ジャポネーズェ)

 

前回のエントリで私は「というかたぶん稔が主役なんだろうなぁ」と書いています(第159回芥川賞受賞『送り火』高橋弘希 - 感想

より引用)

その意見は変わっておらず、むしろ強められる一方で…

はい、稔なんですしゅやくわ^^

 

「ほんとうに疎外されているのは誰や…?」と考えてみてください。

歩なんてこれからグローバルバカになってチート人生るんたたた、モテる♪ て感じです100ぱー。

ほんとうに世界から疎外されてるのは稔や……。

そして、晃であり、クリエイティビティヤンキーであるのや……。

まあ、あるいみ歩もなんだけどね。

登場人物みんなが、共同体から弾かれているわけですよ。この『送り火』という作品は。そして自然が美しき怒号を発しているんですよ。この『送り火』という作品は。(なんで2回いうかというと、SEO対策。だからブログは嫌ッ><)

 

ここらでちょっと、「文学界」2018年8月号の小林敏明氏の寄せた「故郷喪失の時代」という評論をみてゆきましょう。(おまえら文学界は買え。最近かなりいい。持ってて気持ちいい。表紙を撫でてて昇天しそうになるレベルだ。)(あなたたち、文学界は買いなさい。ここのところイッちゃいそうになるくらい素敵な装丁です。実質もともなっていますよ。)←悪魔と天使の占い大好きな人のかんがえた文章

 

「文学界」2018年8月号に、ライプツィヒ大学の教授である小林敏明氏が「故郷喪失の時代―第一回 フクシマ以後を考える」という評論を寄せています。

(これがめっちゃおもちろいーー!だいしゅき////////)

 

この評論のなかでは、まず石牟礼道子の『苦海浄土ーわが水俣病』のあとがきについて触れられています。

〝地方を出てゆく者と居ながらにして出郷を遂げざるを得ないものとの等距離に身を置きあうことができれば私たちは故郷を再び媒体にして、民衆の心情とともに、おぼろげな抽象世界である未来を共有できそうにおもう。(「故郷喪失の時代」―石牟礼道子苦海浄土ーわが水俣病』あとがきより抜粋)〟

これを受けて、小林氏はこう語ります。(字を太くします。失礼します)

故郷に住みながら心情において故郷を出るとは、その故郷の荒廃が耐え難いまでに進行してしまい、いまや心情にしか残された道はないという切羽詰まった筆者の置かれた現実を示唆すると同時に、その現実が自分の意思をもつぶしてしまいそうな重圧として立ち現れているということである。〟

 

レヴィ=ストロースも言うてます。「都市は田舎を踏み台にして発展していく」と。(悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース著)から抜粋)

 

てめぇら、田舎を無視すんじゃねえよ。ナカケンさん(中上健次)読めよ。もう村上春樹の時代じゃないのよ♡あんしんしてね、蓮實さん。

 

というわけで、高橋弘希の『送り火』を、

土着人文学の逆襲、はっじまっるよー!!!!!

のホイッスルとして読むのも面白いかと、思います。

げんに、全員ぶっ殺す状態に陥ったスーパー稔に対してクリエイティビティヤンキーたちは、

〝神降ろしばしでまっだ、彼岸様ァ、此岸さおいでになられだ!〟

と、地元ならではの神降ろしを稔にあてはめてるし、

ぶっ殺しのめにあった歩も、

〝赤黒い稔の顔面と、赤黒い柳のカス札が、同時に脳裏を過ぎり、それは重なって混ざり合い、背後に迫っているものは、あの枠外から伸びてくる鬼の手と同じ種類のものかもしれない、〟

と、燕雀(えんじゃく)の鬼札を想起していて、この鬼札というのがまた地域特有の「鬼に寛容な」文化を象徴している。

(すべて『送り火』より引用)

 

 

 

はー、巻きでいけなかった。カップ麺くいます。

きょうはちょっと、涼しい日。

 

 

送り火

送り火

 

 

 

文學界2018年9月号

文學界2018年9月号

 

 ↑陣野氏の送り火論が載ってるよー!

 

テロルの伝説:桐山襲烈伝

テロルの伝説:桐山襲烈伝

 

 ↑陣野さんの本!

 

文學界2018年8月号

文學界2018年8月号

 

↑「故郷喪失の時代」載ってるよ~!『ファースト・クラッシュ』ごりごりの山田詠美だった!!♡♡めちゃ当たり回、否、当たり界!

 

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